宮崎駿の近作は、少なくとも宣伝の仕方としては、
「生命賛美」とでもいうような、
あまりにも肯定的で、ストレートで、身も蓋もないパッケージに包まれている。



でも、突き抜けたピュアなメッセージが効果を得るためには、
冷たい肌触りの虚無が、じゅうぶんに生成していることが必要なんじゃないかと、ぼくはおもっていた。

つまり、
「人類に種としての明るい未来がないことは明白だし、
人の生は不平等で本質的に悲惨なものだ」
という認識にたいして、
ガツンとポジティブな意見がぶつけられるからこそ、ショック療法としての意味があるわけで、
打倒すべき相手のいないところでカウンターだけがあると、いくぶん奇妙なことになってしまうんじゃないだろうか。

44b4b724.jpg


(以下、ネタバレ)

『ハウルの動く城』のなかにも、葛藤する2項が
ちゃんと埋め込まれている。
それはキャラクターとしては、
王室付き魔法使いのサリマンと、帽子屋の娘ソフィーがそれぞれを表しているような気がする。

サリマン……。
この映画のなかで、もっとも魅力を感じたキャラクターなんだけど、
彼女について、うまく説明することができない。
というより、「説明できない」ということが説明となりうるような、超然とした人物。
しいていえば、彼女は、ときに不条理な世界のシステムそのものだ。
強力な知性の果てに生まれた、能動的ニヒリズムの達成者。
力を手にしている、不動のもの。

一方の主人公ソフィーは、
18歳から90歳までをゆらゆらと往き来する、揺れ動く存在だった。
ソフィーにかぎらず、この映画では登場人物がころころと姿を変える。
その変身は、バンッと光や煙でキャラクターの姿がかき消え、ふたたび現れたときに
まったく姿を変えているというのではなしに、
マイケル・ジャクソンの「ブラック・アンド・ホワイト」のMV的な、
ニョニョニヨーンと物体の輪郭が変形していく類のもの。
少し脱線するけれど、アニメーションならではの、このメタモルフォーゼ祭りは見事だとおもった。
実をいえば、ある時期、ぼくは宮崎アニメのタッチに限界をつよく感じていた。
いつまでもハイジやコナンの絵柄で映画をつくるのは無理がある。
画面の情報量が、あまりに少ないのだ。
でも、「千と千尋」を経て、「ハウル」で、宮崎作品は「画」のもんだいをクリアしてしまった。
単純さと線の柔らかさを逆手にとった不定形なキャラクター描写には、
「攻殻」のような硬質な絵柄には出せないインパクトがある。
ほとんどのキャラクターがめまぐるしく姿を変える「ハウル」の世界で、
外見を変化させないのがサリマン。ここからも、ふたつの対比はあきらかだとおもう。


「私はこれまで、きれいだったことなんかないもの!」というセリフも出てくるように、
ソフィーはじぶんに、なかなか価値を見出すことができないでいる。
彼女がはじめて確信をもったものが、「ハウルに対する想い」だ。

ソフィーの行動原理は、サリマンのそれと比べると単純なものでありながら、
あまりに大ざっぱなので、何をやりたいのかよくわからないことになっている。
エンディング近くでは、「とにかく、チューしとけばいいっしょ」とばかりに、
手の届く範囲にいる人たちにソフィーがキスをしまくる。
しかも、そのことで、映画を破綻させかけていた諸問題は、
なぜか次々に解決していくという、驚きの展開になる。
このいいかげんさって、「唾つけときゃ治る」というのに似ている。

でももしかしたら、
この世界の大抵の問題は、
ほんとうに唾、じゃなくてチュッと口づけをすれば、解決するものなのかもしれない。
サリマン的な知性なんて、葛藤や拮抗が必要どころか、まったくお呼びじゃなくて。
ぼくが難問と感じていた、たとえば心の不在や、老人の介護や、戦争ていどのことなんて、
チューで解決できるものなのかもしれない。
瞬間、失笑をもらしたあと、ぼくはほんとうにそのことを検討しはじめる。
キスが世界を救うかもしれない……。
どうも我々は、あまりにもったいぶっていて、
虚無に無抵抗になっていたようだ。

とりあえず、チュー。