日曜だというのに、銀座の職場で仕事をしていた。
昼過ぎまでになんとかやっつけた原稿をヤマトに届けた足で、
その日はもう仕事をしないと決めて、ちかくのカフェに向かった。

週一くらいの頻度で通っているそのカフェで、
ぼくはコーヒーを飲んだことがない。
紅茶もケーキもカレーも食べたことはない。
居酒屋として利用している。だって、なぜか焼酎が豊富なのだ。
焼酎とか泡盛を呑みながら、ゴーヤチャンプルなんかをつついていると、
どうしたってカフェって気分にはならない。

とはいえぼくの目当ては焼酎なんかではなくて、
そこで働く若いスタッフたちがとても小気味いい働きぶりで、
彼ら彼女らの健やかな姿を一目みて、心洗われるために通っているといってもよかった。

と、書いておきながら、
いつも呑む「ひょおすんぼ」が品切れと聞いたときには、
目の前が一瞬くらくなったのも事実だし、
そのあと件のスタッフの女の子が厨房から出てきて、
「あの焼酎の最後の一杯は、私が飲みました」と報告をするにおよんで、
がっくりと肩を落としたわけで、
じぶんがそのカフェに行く動機が、厳しく問われたような気がした。というのは、おおげさだけど。

代わりに注文した焼酎(「ないな?」という銘柄をすすめられた。冗談のつもりなのか)
もおいしく、ほろ酔いになったぼくは、
浅草にくりだす。
その日は、まず餃子の「末っ子」に入る。
小ぶりな一口サイズの餃子。一皿400円と価格は抑えめだ。
表面はしっかり焦げ目がつくまで焼いていて、あんにはとろみがある。
軽やかな味だ。
まるで、細かな泡が舌の上をくるくると転がって、正体を掴まえさせないような。
この餃子なら、二人前はいける。

厨房のなかでは、
ビールっ腹で鼻の頭が赤い、絵に描いたような中華屋の主人が、
ひたすらジャカジャカと中華鍋を振り続けている。
炒めるのは旦那、奥さんが麺を茹で、餃子は息子が焼く、という家族内の分担らしい。
もしかしたら、家族に見えるだけで、他人同士なのかもしれないけれど。
ちなみにレジには、ばあちゃんが張り付いている。

主人の、コンロ上での鍋のゆすりっぷりに惚れて、餃子と一緒にチャーハンをたのんだ。
でも、そもそものご飯を炊くときに水気が多すぎるのか、
パラリサラリ
という
チャーハンに期待する醍醐味がまるでない。
カウンターから見ていると、
奥さんが担当するラーメンも、湯切りが半端で食べる気にならない。
この店、餃子の一品だけが突出しているのかもしれない。
しかし、あの中華鍋のふりっぷり、いいんだけどなあ。
今度くるときは、赤鼻の主人にもういちど希望を託して、
ボリュームのありそうな野菜炒めにチャレンジしてみようか。


つぎにいよいよ、その日のメイン・イペント、「うまいち」へ。
馬道通り沿いの一丁目にあるから、「うまいち」なのだろうか。
とおもったら、ちょっとずれた場所にある。
狭く、わびしく、質素な店のつくり。
ぼくが入ったときには、近くに住んでいるらしきジャージ姿のカップルが一組座っているだけで、店内はまだ閑散としていた。
怪奇映画のスター、ベラ・ルゴシに似た主人が、むっつりと押し黙ってテッポウを焼いている。
14インチのテレビが一台、台風のニュースを伝えて、ご主人の寡黙ぶりをサポートしていた。

まずはチューハイ。一杯300円。
炭酸の注ぎ方といい、氷の落とし方といい、つくり方がドラキュラなみにエレガントだ。所作が堂にいっている。
で、ぼくのなかで話題沸騰の「うまいち」のテッポウ(となりのカップルも食べていた)を、いよいよ焼いてもらう。
クシに刺した青白いテッポウを、黒いタレにジャポンと一回つけて、じりじりと網で焼く。チューハイで喉を濡らしながら、吉田修一の「突風」を読んで待つ。

「突風」は、海辺の旅館のあぶなっかしい人妻と、感情のどこかが欠落したサラリーマンの邂逅を書いている。
狂気と気狂いは、違う。
主人公の青年には狂気が宿っていて、旅館の奥さんは気狂いになっている。
狂気は、感情の針がふりきれる振幅の大きさが身上だとすると、
気狂いには、そもそも針がついていない、というイメージだろうか。

「突風」を読み終えて手持ちぶさたになったとおもったとき、テッポウが焼き上がる。
やわらかい。
とろとろ。
とろんとろん。
もぐもぐとほおばるうちに、時間がゆるむ。
一皿4本あって、とても食べきれないと思ったけど、しつこくない味なので、いつまにか平らげている。

次に、タン。
これは豚の舌らしく、原形がわかる大きさと形。
塩をかけすぎだろうと思っていたのだけど、最後にふりかける胡椒と相まって、
肉のうまみを最大限に引き出していた。まいった。
火の通りを、ときどき指でつまんで確認しながら焼くベラ・ルゴシ。
焼いているときにほかの客が入ってきたときも、焼きに集中しているために、
新規客のドリンクの注文を待たせるところがかっこいい。

隣りの席に座った客の、紫煙がうるさくなったところで退散した。

ちなみに、寡黙な主人というイメージは早とちりで、馴染みの客が入るたびに、ベラ・ルゴシは饒舌さを増していった。
ぼくも、いつか親しくしゃべれるようになるだろうか。
もしそうなったら、モツ焼きを4本単位じゃなくて、せめて2本単位で注文できるか、交渉してみよう。