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原節子は、28歳(の役どころ)。
会う人ごとに「そろそろ嫁にいかんとね」といわれるお年頃。
家族の一番の関心事は原の結婚。彼女の勤める会社の専務が見合い話をもってくると、家は大騒ぎになる。


小津が『麦秋』で描いた世界観が不快なのか、それとも小津の描いた当時の日本の社会がそうなのかはわからないけれど、
酒井順子の『負け犬の遠吠え』を経た2004年の視点で見るとき、『麦秋』のなかで原節子が置かれる状況には、心がいたい。

すべてのおなごは、嫁ぐべし。という社会的な暗黙の圧力が、映画にみちみちているからだ。
ぼくなんかは「ほっといたらええねん」、と嫁にいかない原節子を擁護したくもなるのだけれど、
でもぼく自身、いまの風潮におどらされているだけなので、独身の自由を賞揚するモラルにどれほどの説得力があるかはわからない。

原の友だちとして3人の妙齢の女性が登場する。
うち二人は既婚、ひとりは未婚。
四人がレストランなどに行くと、たいてい既婚、未婚の二人ずつに分かれて、お互いをからかいあうとことになる。
そのとき、既婚女子のいう
「結婚していない人間には、シアワセについて語る資格なし」
という言葉に、思わず沈黙する原節子とぼく。
原がそのことを姉にいうと、
「だったらあなたも結婚すればいいじゃない」とにべもない。

カチーン。

そこから、原の復讐が始まるのだった。



オープニングでカナリアのいる鳥籠を重ねて見せるショットに象徴されるように、
この映画は、「家」という容れ物にカメラを据えている。

原の結婚を契機に、「家」になかで保たれていた家族間のバランスがくずれる様が、
うれしくあり哀しくもあり、という感じで綴られる。

ところで、『麦秋』のなかでは、
「ちょいと」
という言葉がよく使われる。
「ちょいとそこまで出かけてくる」とか、
「ちょいと座布団をとって」というふうに。

思えば、家のなかのアクションというものは、
おしなべて「ちょいと」的なものなのかもしれない。

でも、原節子の結婚話は、かんたんには「ちょいと」のなかに収まりきらない。

家族のリサーチが始まる。
ウワサ好きなおばちゃんなどから情報を収集した結果、
専務のもってきた見合いの話は、なかなかいいらしいと、
家族も乗り気になる。
「でも歳が40っていうのもねえ」と唯一反対するのは母親だが、家族会議というか欠席裁判というかのなかで、話はまとまる。
こうして「家」は、原の結婚を「ちょいと」的な領域におさえこもうとする。
しかし原は、その「ちょいと」的世界観をいきなりバッサリと捨てる。

その見合いを断った原は、近所に住む、子持ちの男のもとに衝動的に嫁に行くと決めてしまう。

おまけにその男は、いまいる東京から秋田に数年、赴任するという。
結婚するなら、とうぜん原も一緒に行くことになる。彼女が結婚を決めたのは、彼が旅立つ前夜だった。
もはや「ちょいと」の立ち入るスキはない。けっしてない。

ここでは、男たちの姿がスクリーンから隠されることで、
原の独断ぶりが強調される。
最初の見合いの相手も、画面には登場しないし(彼の顔を覗きに行くシークエンスは断ち切られる)、
秋田行きの男との結婚を決めるにしたって、
その男からプロポーズを受けたわけでも、原から言い寄ったわけでもなく、
男の母親と原のふたりのあいだで、勝手に決めてしまうのだ。
男が原と結婚できてうれしいのかどうかも不明。
以後、原と男が同じフレームのなかにおさまることはない。

これはラブストーリーではないのだ。そうなりかねない要素は、注意深く、ときに大胆に隠されている。
彼女が結婚を決意したのは、結婚がシアワセへとつながる道だからではない。相手がどんな人間なのかも、観客にはわからない。
前途には暗雲がたちこめているようにおもえる。
にもかかわらず、彼女は結婚することにする。
それは、「ちょいと」的世界から脱出するためだ。

「秋田」が象徴するのは、この場所ではない未知の国だ。
東京にいる家族にわかっているのは、「どうやらあっちは寒いらしい」という程度の、あいまいで不吉な情報だ。
不安はないのかと心配する姉が、原と二人で海辺にいる美しいシーンがある。
比喩としての「秋田」は、
この海辺のシーンで、原が眺める海の彼方に置き換えられている。
灰色の冷たい水の向こうに、これから彼女が行く場所はある。
まるでスティーブ・エリクソンの小説のヒロインが彷徨うような、暗く孤独な国のように。

ラストシーンで登場する花嫁は、原ではない。
そのときぼくらには、もはや彼女の影しか見ることができない。