みもふたもないことを言うけど
風船をくくりつけただけで家が飛ぶのが納得いかない。



エリーとの出会いの場面で、ひとつの設定が示されている。
カールが廃屋然とした屋敷に忍び込んで、風船を探して2階へ……。
細い梁をつたって風船の近くに行こうとして落下するシーン。
カールは2階から落ちることで、救急車で運ばれるほどのケガをする。
全身包帯。
つまり、この映画のなかで、
重力は威力をふるうものとしてデザインされているのだけど、
家が飛ぶシーンは、そのルールをやすやすと変更しようとする。



一度設定されたリアリティーを、急に切り替えるような箇所が、
もう二つ。

ひとつは、杖の使い方だ。
ストーリーをコンパクトに整理しようとすると、
カールじいさんが旅立つきっかけは
「妻に先立たれたため」
となってしまうけれど、
もうすこし細かくプロセスをいえば
歩行補助の杖で、工事現場の職員を殴り、
傷害で訴えられて家を出ざるをえくなったこと
がきっかけだった。

カールじいさんに殴られた人が
ピクサーのアニメには珍しく血を流して倒れたのに驚いた。
そんなふうに、「人を殺めうるもの」と意味づけを一度されたカールじいさんの杖は、
その後の旅のなかでもさまざまな役割をしていくのだけど、
クライマックスの活劇、飛行船のなかでの冒険家のチャールズ・マンツとの一騎打ちでは、
「決闘の武器」として振り回されることになる。

小道具が意味を変えながら使われるのは楽しい。
でもそれはそれとして
「人を殺めうるもの」と「マンガ映画の決闘の武器」のふたつをこなすのは、いくらなんでもムリだ。
ダブルスタンダード。右耳でチャイコフスキーを聞きながら、左耳で落語を聞くようなものだ。
ここにも、急なギアの切り替えを感じた。


さいごにもう一つ
回収されない伏線について。
冒険のはじまりでカミナリ雲にもまれたあと、
カールじいさんの家がボーイスカウト・ラッセルくんの
卓越した舵取りによって航路を回復し
(というこの場面も、ラッセル少年の一貫した不器用さを考えればムリがあるのだけど)、
雲海のうえにぽっかり浮かんだ状態から下降して、地上を目指そうとする。
すると、
雲を抜けたとたんに岩肌が出現して、
南米のどこか、パラダイス・フォールのすぐ近くに不時着する。

いったいパラダイス・フォールの高度は何メートルなのだろうか。
カールじいさんも
「こんなに早く地上に着くはずがない」と言っていた。
その疑問が映画のなかで説明される機会は、とうとう最後までなかった。




それで、はなしはここからだ。

いままで文句めいたことを書いたけど、
ぼくはこの映画の傷をあげつらっているつもりはない。まったくない。

「描かれていることはすべて(その映画のなかの世界において)正しい」という気持ちで、ぼくはどんな映画も見る。
だから、『カールじいさんの空飛ぶ家』を見ながら疑問を感じたなら、
まちがっているのはぼくで、じぶんの感じた疑問をのみこむべつの解釈を探していくだけのことだ。

ぼくはこの映画の、急にリアリティーを放棄して
物語の都合を図々しく優先する語り口を見ながら
「まるで夢のようだな」と思っていた。
だれかが見る夢の世界を映像化したみたいだ、と。


たとえば、カールじいさんがラッセルくんとの発対面のとき、
「鳥をさがしてきてほしい」と注文して
パラダイス・フォールに着いたとたん、鳥があらわれる、という
このゆるーい連想。
夢ってこういう感じがよくある。

物語の中心をなす、パラダイス・フォールのできごとは、
夢という設定なんだ。とぼくはおもった。
でも、その夢を見ているのは、たぶんカールじいさんではない。



ラース・トリアーの『ダンサー・イン・ザ・ダーク』や
イ・チャンドンの『オアシス』を例にだすとわかりやすいと思うのだけど、
強烈な想像力というは、悲劇的なできごとをトリガーとして発動するものだとおもっている。

もう一つ確認しておくと、
『カールじいさん〜』は、冒頭でエリーとの出会いと別れを淡々と描くことによって、
(アニメではめずらしいことに)人の死を描く映画だった。

それでぼくはつぎのようなイメージを抱えながら、
『カールじいさん〜』を観て、
そして違和感がするする解けるのを感じていた。



カールじいさんが立ち退きをする日の朝、
とても悪いことが起きていた。としたらどうだろう?
最愛の妻がいない世界で、追いつめられた老人がとったとても悲しい行動。
映画はその出来事を直接かくことはしない。
でも
その瞬間から、家が、夢をみはじめている。
無機物である家が、想像力によって、その日に起こったとても悲しい出来事を、物語の力でむりやり救済しようと試みる。
「カールじいさんの家」は、じぶんのなかに蓄えた情報を組み合わせて
じぶんを「カールじいさんの空飛ぶ家」に変え、エリーとカールがこどもの頃に願った場所に
じぶんを運ぶ物語をイメージしたんだ、と。

この仮説以外に、
あの物語のすべてを肯定することはできない。

家が夢を見るという設定は
万物にいのちを宿らせることができるアニメーションでしか実現できないアイデアだ。
さすがピクサーだなあ、といよいよファンになった。