ミシェル・ゴンドリーの仕事には、ほんとに敬意を表するけど……。




イヒヒヒ……と常に不敵な笑みをもらしながら
支離滅裂な行動をするカートゥーン的なキャラクターが
どうにも苦手だ。

セルアニメなら、まだいい。
せいぜい20分つきあうだけだから。
SWのジャージャーも、まだいい。
二作目から消えるとわかっているから。
でも、
アニメでないキャラクターが
行動原理を不明瞭にしたまま動きつづけるのは
見ていて、とてもつらい。


ジャック・ブラック。あなたは何がしたいのか。
なぜ発電所にしのびこむのか。
まるで、レンタル屋のビデオテープの中身を消すために、
体に電磁波を帯びたいがための行動にしかみえないのだけど。



はい、これは大人げない意見です。

もちろんジャック・ブラックは、
まさにレンタル屋のビデオテープの中身を消すために、
体に電磁波を帯びたいがための発電所にしのびこむのだ。

ストーリーの都合のために。

あらすじなんかでは、しばしば
「ひょんなこと」
と表現されるアレだ。

ぼくは物語の前提になる「ひょんなこと」が過ぎ去るのを
半目でやりすごして、笑って受け入れるべきなのだろうか?

残念だけど、それはできない。
はっきりいって、「ひょんなこと」がどうにも嫌いだ。
カラオケと朝の点呼とおなじくらい嫌いだ。
「ひょんなこと」の無自覚さが嫌いだ。

映画の真価は、
どの物語にもつきものの、この「ひょんなこと」を
どこまで突きつめて考えているかによって決まるとすら
ぼくはおもっている。



『Be Kind Rewind』で引用される映画で考えてみよう。
ロボ・コップは、捜査中の事故というひょんなことで
ロボ・コップとしての体に変わる。死と生のあわいは、
この物語に複雑なトーンをつくりながら、
彼の復讐の物語を牽引していく。

キャリーのテレキネシスは、ひょんなことから発動する。
キャリーの家庭と学校での不快さを突きつめ果てに
プロムでブタの血をあびるそのひょんなことは、
映画内の最高のビジュアルをつくる。

『ライオン・キング』で、シンバは、
父の暗殺というひょんなことから王国を追い出されるが、
古典的な悲劇のフレームを踏襲したそのひょなことは
王の復活への布石として、なくてはならないものだ。

『ドライビングMissデイジー』で
デイジーがドライバーを雇うに至ったひょんなことは
買い物にでかけようと自分で車を運転して、家の垣根につっこんだことだったけれど、それは彼女の老いと高慢という物語全体のテーマと不可分だ。



はなしが横道にいきすぎた。
とりあえず「ひょんなこと」は措いておこう。



手作り感にみちたリメイクのシーン、どれも楽しかったです。

ジャック・ブラックが黙っていてくれるシーン
(リメイクシーンと、エンディング)は、心が震えました。

そう、ジャック・ブラックが静かにしていてさえくれれば……。
字幕を読んでる身分でいうのは、気が引けるのだけど
ジャック・ブラックにかぎらず、
台詞に冴えがなさすぎる。
ゴンドリーが、じぶんのつくりたい映像をつくるための装置として
映画を利用するのは、まあ気持ちはわからなくないのだけど
彼が脚本をひとりで手がけるのは無理なのでは。
チャーリー・カウフマンは、じぶんの監督作に手一杯だったんだろうか……。

eiga.comのインタビューでは
《「これから先も自分でオリジナルの脚本を書いていくか、ストーリーを作っていくことになると思う」》
なんてゴンドリーは答えていて、不安すぎる。
「ひょんなこと」問題に、はやく気がついてくれればいいのだけど(こんなこと気にしてるの、ぼくくらいかも知れないけど)。



ただ、映像面以外で、今回ひかれたのは
ミシェル・ゴンドリーのヒロインの扱い。

顔をゆがめながら出てくる登場シーンもよかったし、
ダメ男ふたりに挟まれてなんの違和感もなくおさまる配置もよかった。

ぼくは『恋愛睡眠のすすめ』と『TOKYO!』と、
近い2作を見ていないのだけど、
ゴンドリーの女優の撮り方はユニークだとおもう。ぶさかわいい。
(いましらべたら、『恋愛睡眠』のヒロインはシャルロット・ゲンズブールだった。すぐ見なければっ)