「なんとなく悪い人」禁止





NHKの番組「プロフェッショナル」のなかで

「この映画を見て、じぶんも波の上を走れるんだって、
 こどもが信じてくれたら、やったぜと思う」

というのが印象にのこってる宮崎さんのコトバの一つ。

ほんとに、そう信じるこどももいるだろうな、と思う。
ぼくだって小さかったときには、ナウシカに出てくる
メーヴェに乗ってみたくてたまらなかった。

波の上をニコニコしながらはしる女の子。
この、たった一つのイメージのために
映画のすべてが捧げられたっていい。



そんなふうに
物語の蓋然性よりも、感情やイメージの高まりを
追いかけていく宮崎さん。
の、新作を扱う「プロフェッショナル」が、
「死を意識するようになった老監督が、母を想う」
なんて物語の枠に宮崎さんを回収しようと必死になってることは、とりあえずあまり気にならなくて、

ただひたすら、
「おお、宮崎さんが生きてるなー」
と、ほくほくしながらテレビを見てたんだけど
その姿に「ありがたみ」を感じてしまっているぼくも
やはりどこかでプロフェッショナル的なコードに同調していたのかもしれない。

「最後の長編」
という煽り文句にも聞こえるコトバを
新作のたびごとに言ってる感のある宮崎さんだけど
「プロフェッショナル」のなかで、横たわって整体師にもまれる姿を見ていると
いよいよそのときが迫っている、というのはわかる。

たぶん『もののけ姫』のときに、
宮崎さんは半ば以上、引退していて
「物語と格闘する責任」を、そこで置いてきたんだろう。
そのあとの映画は
物語を語ることに、捕らわれていない。

だから、
「映画とは、物語を映像で語ることである」。
みたいな定義をもっている人にとっては
『千と千尋〜』から先の宮崎作品は
ことごとく失敗作ということになるのだろうけれど
ブランドの持続力を差し引いても
宮崎さんの作品は、物語から離れたいまも観客に喜ばれているみたいに見える。
とてもふしぎだ。

もしかしたら、こういうことかもしれない。

物語消費に成熟した観客たちにとって、
世界観と人間関係をあたえられたら、あとは物語は瞬時に自動生成されるものになっている。
その「あるべき物語」の姿を頭上に感じながら
スクリーン上のイメージとたわむれる……。

たぶん、こんなような映画の見方は
文字面の複雑さほどには、ややこしいことではなくて
だれもが自然にやっていることなんだろう。
それこそ、リテラシーの高低とはべつに
子どもも感覚的にそうやって映画を観ている、のかも。
となると、物語というのは、ほとんど生得的に、
だれもが持っているということなのかもしれない。



ところで宮崎さんの近作が、
どうして物語の語りから外れているのかというと、
悪役がいないからだ。



便宜的な悪役が立てられていない「ポニョ」のなかで
フジモトのことを考えてみる。

フジモトは、海の生命力を凝縮した魔法の水をつくっていて
それをもって、いつか海で地表をおおい
人間の世界を終わらせようとしていた。

物語の定型からすれば、
フジモトは狂気の怪人として
堂々通用するバックグラウンドをもっているのに
「ポニョ」のなかでは
どちらかというと「かわいそうな人」として
終始オロオロしている。

ポニョも、宗介も、町の人びとも
フジモトと戦う構図にはならない。
町が海に沈んでしまうカタストロフィーに際しても
『日本沈没』的悲壮感と無縁に、みんながあっけらかんとしている。
まるでボート遊びに出かけたみたいに、明るく、笑っている。

で、こういう
悪の隠蔽とか、悲しさに蓋をすることとかは、
「子ども向けの映画だから、見せないようにした」
ということでは、まったくなくて、
宮崎さんの作劇が、悪役をつくることを拒むからだ。



「これでは、鳥は飛ばないですよ。
 なんだか、ケンカを売られている気がする。」

スタッフのアニメーターに言ったこの宮崎さんのコトバが、
「プロフェッショナル」で印象にのこったもうひとつ。



背景をよこぎる鳥の飛び方に
「なんとなく」を許せない。
ならば、悪役を描くときにも
そこに息を吹き込もうとするときには、
「なんとなく悪いやつってことにしとく」ことは、たぶんできない。
すくなくとも、宮崎さんにはできない。

そのキャラクターの悪に
納得したり、共感できなくてはいけない。

人は愚かさから、悪になるだろう。
人は愛から、悪になるかもしれない。
人は使命感から、悪になることもある。

そして、彼の愚かしさや愛や使命感に、血を通わせようとして
ぐっとよりそっていくと
もう「悪」としては描けなくなる。

物語の要請から設定したはずの悪に、
宮崎さんほどの想像力でもって
命をふきこもうとすると、もう悪が悪にならなくなる。

かわいそうな人になったり、愛おしい人になったりする。



ぼくたちが生きていくなかで
しばしば、「じぶんの物語」が必要になることがあって、
その物語に、上司や、顧客や、先生や、親といった
悪役がいると、物語がわかりやすく機能することがある。
でもたぶん、そのときは、想像力が足りていない。