映画のテクニックがどんどん進化していって、
その出発点や黎明期になにがあったかなんて、
遠く霞んで見えないようにおもえても
作り手がこころのなかで
エイゼンシュタインを射程に入れることは
いつでも可能なんだということ。





昼休みに、空き腹をかかえて銀座を歩いていたら、
遠くに見える東劇の看板が、いつも以上に地味で
黒地に白文字で
2001年宇宙の旅
って書いてあるだけで、
まさかあの『2001年宇宙の旅』のことじゃないよね、と
看板に近づいていったら、
やはりどうも、あの映画のことのようだった。
その日が最終日だった。
どうしようどうしようどうしよう。
もちろん見に行った。

はじめて
スクリーンで見た。

音と映像の洪水に、体ごと運ばれていく。
気持ちいい。
圧倒的な体験。

スクリーンで見ることを当然のように要求する映画、というのが
世の中にはあるもんだ。と、しみじみおもう。



これまで、劇場で見のがしたことを後悔している映画は
何本かあるのだけど
近作のなかでいえば
『トゥモロー・ワールド』がそのひとつで
あらためて悔やむのがいやだから、DVDレンタルでも
ずっと手を出さないようにしてきた。
ところがこないだ、100円レンタルのコーナーに見つけて、
ふと借りてきてしまった。



全編、黒沢清だった(ぼくのなかの、最上級の褒めコトバです)。



スピルバーグとの比較で、すこしだけメモ。


ぼくにとってスピルバーグ映画の特徴は、
決定的な光景を目撃したいというリビドーと、
目を閉じることのモラルとのあいだで、揺れ動いているところにある。
だから彼の映画群は
「見ることの禁忌」についての映画だと、いいかえられる。

「未知との遭遇」の宇宙船のなかや
『レイダース』の箱の中身が象徴的なように
スピルバーグにとって決定的な光景というのは
まばゆい光そのもの。
そしてもし、光そのものを目撃したいならば、
我々はこの世界で生きることが許されない。


アルフォンソ・キュアロンもまた
「見ること」と、「目を閉じること」に自覚的な映像作家だ。
その二つの行為の意味づけは、スピルバーグとよく似ていて、
でも、すこしちがう。

キュアロンの世界はすみずみまで、
テクスチャーの伽藍として構築されている。
目を向ける光景がどこまで圧倒的なものになっても、
(光という、抽象的で無機質なものには転化しないで)
テクスチャーの肌理が高密度になっていくばかりだ。

おそらくキュアロンにとって、
見ることは、特権的なことでも、神聖なことではない。
すさまじい光景を見ることになる人たちは、
選ばれしヒーローではなく、市井の人びとだ。
彼らは、自ら欲求しないのに、その光景を目撃させられる。

『トゥモロー・ワールド』の、エンディング近く。
舞台が霧のなかに移るのが、印象的だった。
スピルバーグ的なまばゆい光とは、対照的な光景。
テクスチャーは影をひそめ、均一な青灰色の世界に主人公は包まれる。
このとき、主人公は、「見ること」から開放されようとしている。

スピルバーグの登場人物たちが、目を閉じることで現実世界で生き延びることができるのとは逆に、
キュアロン映画のキャラクターにとって、見ることは現実世界での闘いそのものであって、目を閉じることは世界の果てに向かう救済としてある。



……というようなことが言えるのかどうか。
未見だったキュアロンの撮ったハリポタも、確認してみたい。



『ヘル・ボーイ』のあとに
『パンズ・ラビリンス』をつくったギレルモ・デル・トロや
『ボーン・スプレマシー』のあとに
『ユナイテッド93』をつくったポール・グリーングラスなんかを思いうかべると、
フランチャイズ映画を手がけた直後に本気作を撮るという順序が
いまハリウッドのトレンドになっているのかもしれない。

アルフォンソ・キュアロンも、ずっとお気に入りの監督だったのに
ハリー・ポッターを引き受けたことで、
ぼくはうっかり「もう降りた人」という認識になっていた。
でも、デル・トロパターンを踏襲していたとは……。

いい評判をききながら見のがしてしまって、
今回、案の定、スクリーンで見なかったことをはげしく後悔。



ところでおどろいたのが
amazonでのレビューで、『トゥモロー・ワールド』の星の少ないこと。

星一つの人たちの意見は、こんな感じ。

http://www.amazon.co.jp/review/product/B000KIX9BO/ref=cm_cr_dp_hist_1?%5Fencoding=UTF8&filterBy=addOneStar


「わからないこと」への違和感や批判を表明するコメントが多いけれど
メッセージや意味や物語を映画のなかに求めるあまり、
説明されないことが傷に見えるのだろう。

でも、だとしたら
『2001年宇宙の旅』は星いくつなのだろう。
もし映画に「説明」を期待していると、
キューブリックの描いた燦然と輝く宇宙に、星が見えないなんてことになりかねない。

ぼくは、これまで映画をたくさん見てきたわけではないけれど
それでもいくらか見ていくうちにわかったことが、ひとつある。
見れば見るほど、映画を純粋に映画そのものとして見られるようになるということ。
「映画はこうあらねばならない」という鎖から、見るほどに自由になっていく。
映画は映画そのものであってもいい。物語でも教育でもコマーシャルでもなく、ただの映画であっていい。
もっとじぶんが自由になって
映画の可能性におののき、夢をみたい。

ぼくにとってリテラシーの意義って、そういうことだとおもう。