「ゆく川の水はたえずして、しかももとの水にあらず
 よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、
 久しくとどまりたる例なし」








ダムの底に沈みつつある町に、
十数年前にわかれたままの妻をさがして
訪れた寡黙な男。

プロットは、シンプルだ。
男はやがて妻をみつけ、再会を約束し、町を去っていく。
それが2時間弱という
きわめて映画的にまっとうな尺のなかに
ゆるりと収まる。

市井の人びとの、ちいさな物語だ。
おまけに、眠気をさそうような、ゆったりとした語りのテンポ。
しかし、これはなんと野心的なフィルムだろう
(と、ぼくはうつらうつらする頭のなかでおもう)

水にやがて没する町、
という現実の中国の舞台装置にかこつけて
ジャ・ジャンクーが描き出すのは
UFOや綱渡り男、ロケット噴射するビルなどが跋扈する
ファンタジックな世界の終わりの光景。

しかも
主人公たちは、それら異形の光景に目をしながら
あまり気にすることもなく、
いや「あまり」というより
ちっとも気に留めることなく、生きていく。

ここでは、リアルと非リアルが
けっして溶け合うことなく、そのまま共存を強いられているような
ムリムリな力業を感じてしまう。
違和感。
のどごしの悪さ。
「中国で生きる人びとの、生の実感が叙情的に表現され〜」
という
すでに宣伝資料で用意された「感想」に落とし込もうとしても
それを簡単には許さない意志が、『長江哀歌』にはあるみたいだ。



映画を高田馬場の早稲田松竹で見たあと、
ぼくはこの映画をどう受け止めればいいかわからなくて
皮膚感覚としては、すごい映画を見たという感覚があるんだけど
破綻や無意味さに見えるものも、たくさんあったから、混乱していた。
で、
ともだちと電話で話して、『長江哀歌』には
「大状況と個人の関係」が描かれているとおしえてもらって、
ああ、そうかと
納得できたところがある。

世界の終わりという大状況と、
そこで生きる個人の姿。
ここで、「セカイ系」(いまや懐かしのコトバなのだろうか)を
引き合いに出すと、とてもわかりやすくなる。

「セカイ系」では、個人の感情とセカイの状況とが
シンクロしている。
けれども、
『長江哀歌』では対照的に、
世界はそれ自体として存在していて、
地上の小さな個人を顧みることも、だれかの感情とシンクロするなんてことも、ない。両者には、はっきりとした断絶がある。

たとえば、
物語のもっとも大きい要となる
「妻が見つかる」
という出来事は
教科書的な意味でのすぐれた脚本みたいに
主人公の何かしらの(勇気や知恵をしぼった)アクションにたいして起こるのではなかった。
ある意味で、妻が見つかることは、
世界の側がゆらゆらと運んできてくれる出来事だ。

男は水の上でとどまりつづける船のように
定点に在り続けることを選ぶ。
妻を探すための手だては早々についえてしまい
彼は川のそばにとどまって、待つことしかできない。
一方の川は、いっけん不動のようでいて
その内実を刻々と変化させていく。
男は動かないけれど、
世界が動きつづけるから、その見えない動きのために、偶然に、「妻が見つかる」ということも起こる。
もしかしたらそれは、起こらなかったことかも知れない
という怖さを、『長江哀歌』は隠し持っている。

それでやっとぼくは
ときおり差し挟まれるシュールな映像を受け止める用意ができていることに気付く。
どうして、世界が奇妙で不可解な顔を見せるのか。
それはわからない。わからなくていい。
世界とぼくらとは、相容れることなどないから。

ただし、世界がぼくらに関心をむけない一方で、
『長江哀歌』の主人公たちもまた
世界に対して無関心であることは、とても大切だとおもうし
ジャ・ジャンクーが『長江哀歌』で見せたいことが
そのような個人の世界との距離感にあるのだろうということは
いまは納得できる気がしている。

後半のほうで
遠くで崩れ落ちるビルにたいする、男の静かすぎる反応をみて
「彼がもっと驚かないのはおかしい」
と言う観客は、たぶん世界に何かを期待しすぎなのだろう。
あめ玉をかわしたあと、ふと、音もなく崩れているビルをふたりが見つめる。そのときの、彼らの、世界との関係。
その隔たり。
じぶんが世界に含まれているとか、世界と対立するとかではなくて、
眼前ですべてのことが起こりうるのを、受け入れる冷たい覚悟のようなもの。



ラストシーンには
ビルとビルのあいだにつながれた綱を
セーフティーネットもなく
綱渡りをする人物がシルエットで見える。
これもまた、奇妙な世界のイメージだ。
綱渡りをする影がなにを目的としているのか、
皆目わからないし、
その影は、解釈を拒否しているようにも見える。

そして主人公の男は立ち止まって、
おどろくでもなく、肩をすくめるでもなく、
じっと遠くの影を見つめつづける。
そして映画は、
綱渡りする男が無事に渡り終えたかどうかを確認することもなく
その危険な行為がフィニッシュする寸前で、
無関心にも、暗転する。
この映画には
かくも潔いデタッチメントが満ちている。