ぼくじしんはマッチョな人間ではないのだけど(たぶん)、マッチョな映画を観るのはわりに好きで、キャラクターたちの行動原理がまるで理解できないことが、いっそ清々しかったりする。





『アメリカン・ギャングスター』が描く二人の主要人物は、ハーレム・ギャングのフランク・ルーカス(デンゼル・ワシントン)と、麻薬捜査の刑事リッチー・ロバーツ(ラッセル・クロウ)で、ふたりともがいかにもリドリー・スコット映画にふさわしいゴッツイ造形のヒーローになっている。

ここでいう「ゴッツイ」と「マッチョ」とは、ぼくのなかで同意語なんだけど、ニュアンスとしては「融通きかない感じ」をあらわしているようにおもう。

マフィアのルーカスの方は、家族愛は人一倍だけれど、本業の麻薬取引にかんしては、鬼のようなビジネス倫理をふりかざして、路上に血を流すことを厭わないほど冷酷無比になれる男として描かれる。
いっぽうのリッチーは、下半身は拘束具をとりつけたいくらいゆるゆるだけれど、本業の警察の仕事では、周囲の腐敗ぶりにまどわされることなく、頑迷に正義を貫く。
刑事の相棒がリッチーの正義を遠因として死んでしまうことをかんがえると、彼もまた「人を殺すほど」突っ走った超個人的モラルを抱えているわけで、警察にいるから彼の掲げる「正義」が正しいとはいいきれないのがミソ。
だから、二人は、対称的であるよりも、むしろ似すぎている。
ぼくにとってはその共通点が「マッチョ」ないし「ゴッツイ」ということで、ひと言でいうと、仕事に対するかんがえがハードすぎってことになる。うーん、まったく理解できない。
てことは、ぼくは仕事にだらしのない、日和見主義な男ということで、まぁその通りなんだけど、いいじゃないのとりあえず。


ルーカスもリッチーも、この「いいじゃないのとりあえず」が言えない。結果として、大きな逆風とわずかな理解者のなか、各々のビジネスを追求していく。映画のほとんどは、その二人のビジネスフリークを交互に描いていくことに費やされる。
マフィアの利害と警察の利害は、真っ向対立=ふたりの男の死闘! となるかとおもいきや、意外な共通の敵をみつけて、最終章ではニコニコ笑い会う関係になって、
なんだかそのことに肩すかしをくらう気分の観客もいるのかもしれないけれど、ぼくはとても腑に落ちていた。だって似たもの同士なんだもの、友だちにもなれるさ。

この奇妙な和解の結果、映画としての葛藤が足りなくなるかといえば、ここは脚本スティーブン・ザイリアンの理知が勝った構成美が冴えていて、緊張感はずっと持続する。
スコットの演出もクールで、熟練の域。過度な思い入れなくテンポよく見せる。スローモーションとはもっとも対極にあるサバサバしたカット割り。(そういえばこのジャンルの大成者スコセッシは、早回しをよく使う。早回しって時間処理という意味では対極にありそうで、スローモーションと思い入れの強さは同じ重みがある)
このジャンルにしては、血糊の量が少ないのが残念といえば残念だけれど、そのかわりに知的な大作の風貌を獲得しているんじゃないだろうか。
好きだ、この映画。

それに、ぼくにマッチョな人格が理解できないからといって、彼らのことを格好良くおもわないわけではない。
ラッセルの低い声は、すごくいい。
それからにデンゼル・ワシントンのスーツの着こなし。とてもとても凛々しい。眺めてるだけで、うれしくなってしまう。
村上春樹が『動く標的』でのポール・ニューマンの着こなしを観るためだけに何度も映画館に足を運んだというはなしがあるけれど、映画ってそういうディテールのきらめきだけで、十分なときってある。