ab7ec99d.jpgもうジェイソン・ボーンというキャラクターを使ってできることは、やりつくされてしまったなあ。と、一抹の寂しさもただよう3作目。

狭い空間のなかでの目まぐるしい格闘、網の目のような路地を使ったカーチェイス、そしてもはやチェイスというより車と車の格闘技のようなハイウェイでの闘い、複数の監視の目をかいくぐっての華麗な脱出など、過去2作で印象深かったシークエンスを、バージョンアップさせた上でてんこ盛り。アクションがより激しくはなっても、豪華にはけっしてらならいところも、ツボをおさえてる。
アクロバティックな場面の組み替えで、パート2のエンディングからつなぎ、海中に浮かぶ死体のようなイメージでもってパート1のオープニングに循環させるって、なんだこの上手さ。
こう書いていくと、なんの不満もないシリーズ最終章のようにおもえる。
うん、不満はない。DVDも買っちゃう。




それはそれとしてぼくは
ジェイソン・ボーンが何者なのかというミステリーには、ほとんど興味をもてないでいた。これは1作目からずっとそうだった。
でもそれは、「所詮、娯楽なんだから、そこまで関心がない」というのとは、すこしちがう。

スパイ映画というジャンルには
「マクガフィン」という概念があって、
「その正体がなにかはわからないけれど、だれもかれもがそれを追いかけている」というその何か、を指している。これはスパイ映画にかぎらず、ある種の物語を語るときに必要な仕掛けだけれど、スパイ映画には、そのジャンルの約束を成立させるために、わかりやすい形でマクガフィンが示される必要がある。
内田樹によると、マクガフィンとは
「ヒッチコックが看破したとおり、物語を起動させる力はマクガフィンから由来します。マクガフィンが発信するメッセージは『それが意味することの取り消しを求める』ということただひとつであり、それこそすべての人々の終わりなき欲望のうちに巻き込むものなのです。」(『映画の構造分析』)
とのことで、追いかけられるものでありつづけるために
マクガフィンは、その実態を定着させることを宿命的に避ける。
「機能する無意味、あるいは無意味であるが故に機能するもの」

で、ボーンシリーズにとってのマクガフィンはなにかといえば、
爆弾とかダイヤとか機密文書とかではなくて
ジェイソン・ボーン自身の過去の記憶、だった。「私は何者なのか」という地味な問いかけ。そしてこのジャンルでは、地味なことが、新しかった。
思わせぶりなフラッシュバックが前半にちりばめられ、
ボーンが自分の過去になにがあったのかを探る――それが物語を動かす。
この最終作では、ボーンがどんなふうに生まれたのか、ついに明かされるってことなんだけど、
内田によるマクガフィンの定義にもう一度たちかえると、ボーンが何者なのかというマクガフィンが解決されるとき、マクガフィンはマクガフィンとして途端に機能できなくなる。
いってみれば、マクガフィンは、その実体としては空白であってもいいものなのだ。いやむしろ、空白であることで存在を留保しつづけることが、唯一の在り方かもしれない。マクガフィンを解体するとき、その実体がどれほどの密度で表現されるとしても、空白の強度には及ばない。
『ボーン・アルティメイタム』で「あの部屋」で何が起きたかが明かされるシーンにプロットが合流していくのを見ながら、なぜかぼくの期待がまったく高まっていかなかったのは、そういうことなんだとおもう。
「あの部屋」で本当は何が起きたかがわかって、驚愕したり感動したりした観客が、はたしていたのだろうか?
『ボーン・アイデンティティー』と『ボーン・スプレマシー』では、マクガフィンの微妙なすり替えに成功していたけれど(『アイデンティティー』では逃避行の行方に、『スプレマシー』では恋人が殺された復讐として)、いよいよ最終章となって、マクガフィンと正面から向き合わざるを得なくなったとき、『アルティメイタム』の負け戦はあらかじめ決定していた。にもかかわず、ここまでのテンションを維持できたことは、ほんとにスゴイ。ディテールそれ自体がきらめいている。