そのピンク色の手紙がとどいたのは、シェリーが家を出ていったのと、おなじ日だった。
手紙は女性からだった。差出人の名前はなかった。
あなたと別れたあと、子どもを産んだ、と書かれていた。
19歳になる息子が、あなたを訪ねていくかもしれません――

まるで村上春樹の短編小説になりそうな始まり方だ。
つまり、受動的で、偶然性があって、謎にみちている。
不穏で、記憶を喚起して、おまけにピンクだ。

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ドン・ウィンストン(ビル・マーレイ)は、手紙の差出人をさがす旅に出る。
彼が赴くのは、むかしつきあっていた4人の女性たちだ。

彼女たちは、ドンと別れたあと、それぞれの人生をいきてきた。
あたりまえすぎることだけれど、みんな、かつてのままじゃない。
それぞれ、結婚したり、していなかったり、
こどもがいたり、いなかったり。
ひさしぶりの再会を、喜んでくれたり、ショックで泣き崩れたり。

そんな四人にとって、一方のドンは、むかしのままの存在のように見える。
「まだ結婚してない」とドンがうち明けると
「やっぱりね」と笑われる。
べつに、彼は加齢とうまくつきあってきたってわけじゃない。
ただたんに、どうやって歳のとっていけばいいのか、わからなかっただけだ。
だから、『ブロークンフラワーズ』で、ドンが
(あまり気乗りしない表情のまま)何かを探し求めていたとすれば、
それは本当は、子どもの母親がだれかってことじゃなくて、
まだ大人になっているかも定かでないじぶんが
子どもに、どんなコトバを語れるだろうかと、不安だったからだ。

物語のおわりで、ドンはとうとう語るべきコトバをみつける。
それは、目の前の若者をまえに、旅のみやげのように
しぜんと口をついてでる。



ドンは、こんなことをいう。
「過去は、過ぎ去っていて、どうにもならない。だから、大切なのは、現在だ」

あれ、それだけのことなの?
と、ぼくはセリフにおどろく。

そう、それだけの、どこにでも転がっていそうな凡庸なコトバを、
ドンは旅で見つけた。

そして、そのコトバを伝えた若者が、じぶんの息子じゃないってわかったときに
ドンはまた、深い憂鬱のなかに沈み込む。

つまり、ぼくら観客がつきあったあの旅は
母親探しでもなく、息子探しでもなく、年相応の英知を指し示す言葉も見つからなかったわけで……。

うーむ。と、ドンといっしょに途方にくれてしまう。
もぐもぐ。これが人生というものの味わいなのか。



ところで

女性を訪ねるとき、ドンは名乗らない。
彼女たちが彼を見るとき、ドンはだまって、はにかみながら立っていて、
彼女たちじしんが、彼の名前をみつけてくれるのを待っている。

それぞれの女性たちの置かれた状況や、交わされる会話は
バリエーションにとんでいるのに、
ドアをノックし、あるいはチャイムを鳴らしたあとの
そのやりとりだけは共通していた。まるで儀式のように。
花をもって、ただ立つ。名乗ることはない。

女性に名前を名乗らない、名乗りたくないというドンの意図は、
2回だけ、偶発的なトラブルによって崩される。

最初は、かつて付き合った女性の娘、「ロリータ」との会話のなかで。
母親は不在。「ロリータ」は客の名前をたずねる。
ドンは、あきらかに気乗りしないかんじで、名乗る。

もうひとつは、後半の花屋の店員との会話でだ。
顔の傷の手当てをしてくれた店員の女の子に
ドンは名前をたずねる。ちょっとした親密さの表現というふうに。
彼女はじぶんの名前をつげ(なんという名前だったか……ステキな名前だった)、
かわりに彼のなまえを訪ねる。
しぜんな会話のやりとりだ。
はじめて会った花屋の店員が、ドンの名前をさがしあててくれるわけもなく
ドンはモゴモゴと、じぶんの名前をいう。
ドン・ジョンストン。
伝説の女たらしのドンファンとは、一字ちがい。
「tがはいる。ジョンストンだ」と、彼はみずから補足説明までかってでる。

花屋でのやりとりのあと、ドンは、5人目の女性のもとに向かう。
彼女は、5年前に死んでいて、だからドンが
花屋の女の子に包んでもらったばかりのピンクのバラを渡すのは、
女性のやわらかな手ではなく、固い灰色の墓だ。

ドンはこのとき、はじめて女性のまえで、「名乗りの儀式」から完全に解放される。
相手がじぶんの名前をしらなくて、訊いてくることもないし、
思い出してくれるまで、はにかみながら立っていなくてもいい。

ドンはだまって花束をおくと、木の根本に腰をおろし、しずかに涙をながす。

このときドンは、いなくなってしまった女性のことをおもって泣いたのではないかもしれない。
もしかしたら、あの涙は、自己憐憫にちかいものだったかもしれない、
とぼくはおもう。そんな気がする。
5人目の女性が、どんな人だったのか、映画のなかでは、すこしも明かされない。
彼女についての記憶を、観客はドンと共有することはできない。

でもだからこそ、観客はその5人目の女性という空白に、
じぶんの大切なイメージを投影することができる。

産まれたかも知れない息子の正体が、最後のさいごでオフビートに暴露されてしまったあとにも
『ブロークンフラワーズ』には、まだ何にも傷つけられない空白が残されている。
ドンのために。ぼくらのために。