金曜の夜、会社がおわって浅草線の押上駅に着いたとき、
なぜかホームをいつもと違う方向にフラフラと歩いていき、
ふだんは使わない出口から地上に出ることになってしまった。
数日前から風邪をひいていた。
頭のなかで噴霧機がウィィーーーンと回っているみたいだ。
意識が虚ろだった。

そして実際、地上には、霧雨が降っていた。
ビニール傘をひらきながら、とつぜん
「そうだ、『まるい』に行こう」とおもいついた。
この出口からだと、「まるい」がわりと近いのだ。

でも、金曜の夜に「まるい」に席があるわけなかった。
なにしろあそこは、この界隈で唯一、行列のできる飲食店なのだ。
それでも朦朧とした頭のなかで、ぼくには奇妙な確信があった。
きょう、この出口から地上に上がったのは、「まるい」に導かれてのことなのだ。「まるい」がぼくを呼んでいる……。
ときどき、頑迷な運命論がぼくの頭を支配する。とくに、こんな体調のときには。こんな雨の日には。

スターウォーズ「帝国の逆襲」での、
ハン・ソロとレイアの別れのシーン。
拘束され、炭素冷凍装置のなかに降りていくハンに向かって
レイアが叫ぶ。
「愛してるわ!」
対してハンが、一瞬気弱な表情を見せながらも、
いつもの皮肉めいた口ぶりで答える。
「知ってるよ」

「まるい」には、席がひとつだけ空いていた。
ぼくのための席だ。
「一つだけ空いてる!」と店のおばさんが愛を叫ぶ。
「知ってるよ」と、ぼくはこころのなかで応える。

病人にふさわしいメニューなど、もちろん置いていない。
注文したのは、
なんこつのホイール焼き、
ガツ刺し、
まるいサラダ。
もちろん、酎ハイも。

ところで今回は、「まるい」の悪口を書く。

誉めるところはもう誉めた。
いいところも悪いところも含めての「まるい」だし、その全体像を愛するからこそ、気になったことも書き留めておこうとおもう。
それに、風邪で気分が沈んでいるから、文章も後ろ向きなのだ。

ではさっそく。
「まるい」のネガティブな特徴の一つは、
注文してから料理が出てくるまでの時間が長いことだ。
だいたい、30分は放っておかれる。
すべての料理をつくるのは、店の主人ひとりだけなので、
キャパが圧倒的に低い。

こういうとき、
「注文、通ってます?」なんて確認するのはみっともない。
黙って、待つべし。
コツは、注文したことをいったん忘れることだ。
ぼくはカバンから池澤夏樹の『母なる自然のおっぱい』の新潮文庫を取り出し、
酎ハイを飲みながら読書に没頭しようとした。

でも、池澤夏樹が捕鯨のことを書く文章に、5分もたたずにうんざりしてしまう。
クジラは知的生物だから食べちゃダメだ、という意見はバカらしい。
一方で、文化的に歴史的に我々は食べ続けてきたのだから、これからも食べる権利があるという主張もバカらしい。
かといって、クジラと人間との、あるべき関係をもう一度見直そうよという池澤の優しい囁きにも反吐が出る。
頭が痛い。
もうクジラについては、何も聞きたくなかった。
じぶんがいつの日か、南の海で実際にこの目でクジラを見る日まで、クジラについてのあらゆる見解をシャットアウトすることに決めた。
ぼくは文庫を閉じた。

最初の料理が出てくるまで、まだあと25分ある。


気絶するほどの時間がすぎたあと
最初に出てきたのは、なんこつのホイール焼きだった。
「なんこつが残り少なくてね、ミニになってっから」と主人は言うのだが、
それでも大盛り。
細かく砕かれたなんこつが、酒の匂い強く残る、とろみのあるスープのなかに浮かぶ。
レンゲですくって食べる。
うまい。一口食べると、もっと食べたくなる。

いったん料理が出始めると、イキオイがつく。
つづいてガツ刺しが登場。
クッハーッ! なんでこんなにプリブリしてんの?
口内で、はずむ。
「弾力」というコトバに再定義を迫るものがあるとすれば、それは「まるい」のガツ刺しをおいてないだろう。


おっと、きょうはよくない面に注目するんだった。

「まるい」のもう一つの弱点は、ドリンクだ。
息を飲むばかりのテンションのフード群に対して、
ドリンクはミイラたちの酒宴から運ばれてきたみたいに死んでいる。
どうして酎ハイという単純な飲み物が、こんなに不味くなれるのか。
答えはひとつしかない。
つくり手に、気合いがないのだ。

そう、ドリンクの弱さという「まるい」の欠点は、
隠されていた最大のウィークポイントへと我々を導く。

奥さん。

こんなに不味い酎ハイをつくる、奥さんの問題は根深い。
夫婦ふたりでやりくりする「まるい」のなかで、
厨房を仕切って活躍するオヤジを、支える役回りの奥さんの意気は、高くない。
我々にとって、最高にうまいモツを出す「まるい」という非日常空間は、彼女にとっては日々の労働の現場でしかなく、オリのようにたまっていく披露を、もはや隠すことができていない。
隙あらば階段に座り込む奥さん。
立ち仕事はつかれる。それはわかる。しかしその場所は、いささか休憩するには目立ちすぎる。

ガツ刺しにつづいて、まるいサラダができあがった。
レタスの上にのっているのは、なんと、ガツ刺しだ。

かぶってる……。

奥さん、注文をとるときに、どうして指摘してくれなかったんだ。
そんなにぼくがガツマニアに見えたのか?