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イーストウッドの脚本、監督作品って、
無駄を省いて、研ぎ澄まされているのが魅力である反面、
モノゴトが展開する経緯、プロセスを簡略化しすぎる傾向があって
(この二つはおなじことを言っているだけなんだけど)
『目撃』は、スリラーとしてもう少しストーリーが入り組んでもいいだろうに
と、若干の欲求不満。

そう思わされたのはおそらく
イーストウッドの「バイオレンス離れ」の傾向が、90年代に入ってはっきりしてきたためで、
はっきりしてはいるんだけど、突き詰められてはいない、というもどかしさがある。

『目撃』でのイーストウッドの役=華麗な手口の泥棒、でも人は殺さない主義
というキャラクター設定の、まるでヒッチコック映画のヒーローのようなソフトさ。
それに加えて、
「家族」というのは絶対的に貴いものなんだ、
という価値観が物語を支配していること。

べつにぼく自身のモラルが賛成とか反対とかではなくて、
映画内の原理として、あるいはアクションが生成する原理として
「家族イチバーン!」となんの前提もなく謳うだけでは
あまりに純朴すぎないかとおもうわけで。
たぶん世界はもう少し多様で混沌とした価値観になっているわけで。

『目撃』が最終的に導く倫理観というのは、
家族のために人を殺すのはアリ=イーストウッド
でも国歌のために人を殺すのはナシ=ハックマン
という2項の差別化だ。
この倫理を誤った者には、「物語」という神から、容赦のない死の制裁が下る。
くりかえすけど、ぼくが(実生活のなかで)そのモラルのかたちを支持するかしないかではなく、
なんの検証もなく任意のモラルが「そういうものじゃん?」てな感じでまかり通る神経に、
「マッチョだなー」とおもう。

たぶんイーストウッドは、もうちょっと老いなければならかったのだろう。
身体の弱々しさで、生得的な根深いマッチョを目減りさせて
バランスをとる必要があったのだとおもう。

ちなみに、『ミリオンダラー・ベイビー』では、
「家族は絶対的に正しい」というモラルが、検証のすえに捨てられる。


と、不満めいたことをつらつら書いたけど
冒頭の場面に登場する画学生が
ほんもののイーストウッドの娘
だと知って、ほほえましくて、この家族万歳映画もいいかとおもえてきた。