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森達也のドキュメンタリー、『A』を観る。

1995年に東京の地下鉄車内にサリンがまかれるというテロルは、
9.11以前には、世界史的に見てももっとも衝撃的なテロだった。『A』は、その地下鉄テロを起こしたカルト教団の、広報部長の青年を追いかけている。たぶんタイトルの「A」とは、荒木浩という彼の名前からとられている。

本編のなかでの森と荒木のやりとりで、
「広報部長として、これだけテレビなどのメディアに名前と顔を露出してしまうと、仮に脱会するとしても社会復帰は絶望的ではないか」と訊く森に対し、
「たとえここをやめても、社会には戻るつもりはない」と荒木が答えている場面がある。
べつのシーンでは、「じぶんは出家してここに来たけれど、(報道の過熱した)この間で出家する以前よりも激しく社会に接したいま、可能ならばもう一度出家しなおしたいくらいだ」というコメントもしている。
彼の目に、社会は醜悪に映る。

「荒木」、ではなく、「A」というタイトル。
それはべつに、「荒木」よりも「A」の方が語感がいいから選ばれたものではないだろう。また、ある普遍性をタイトルにもたせたいという思いも、さして重要な動機ではないだろう。
矛盾するように見えるが、森は荒木に取材した作品をつくることで、彼を世間に晒すようなことをしながら、同時に、荒木に匿名性を与えたいのだろうと、ぼくには感じられた。
できれば森は、荒木を名前のない、だれにも知られることのない存在としてしまい、どこか遠い場所でだれにも干渉されない平穏な生活を送ってほしいと願っているのではないだろか。それはもはや、かなわない夢ではあるけれど。

画面に映る幾つもの顔を見ていると、不安になってくる。

我々は動物としての本能的な部分で、相手の顔からさまざまな情報を読み取るはずだ。
敵か、味方か。
危険か、安全か。
悪意があるのか、善良か。
知的か、野蛮か……といった情報。


だから、映画がはじまって荒木の顔が映された瞬間から、ぼくは作品に捕らえられる。
荒木がこういう顔でなければ、ここまで『A』が訴求力をもつことはなかっただろう。
そして、画面につづいて登場する信者や、警官や、レポーターや、市民運動家たちの顔を見続けるうちに、混乱は深まってくる。
じぶんの本能は、どこまで信頼できるのだろうか?
単に、『A』のストーリーテリングに踊らされているだけなのではないか?

カメラは、教団の内側からカメラを外(社会)に向けている。
すると、両者の関係が反転し、最終的には世間とその外側という、シンプルな二項がとっぱらわれる。
世間とか、犯罪集団といったフレームの存在がリセットされた状態のなかで
観客は画面のなかの顔を、凝視する。
じっと見つめる。