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「銃声がおまえを解放する」
というコトバは、
競泳の飛び込みのタイミングがつかめないダコタ・ファニングに対して
ボディーガードのデンゼル・ワシントンがアドバイスするなかで出てくる。
このコトバが、映画全編にわたって変奏されていく。

素直にとらえれば
「銃声が解放する」というのは、生きる気力を失ったデンゼルの
自殺願望として、まずはあるだろう。
映画の前半、アルコールに溺れ、過去の幻影にさいなまれる彼は
衝動的にもっていた銃をこめかみに当てて、引き金を引く。
銃声が大音響で耳につんざく。

その銃声は、しかし幻だった。
実際には球は発射されず、観客が映画館のスピーカーから確かに聞いたその轟音は、
デンゼルのこころのなかで轟いたものだという「演出」。
でも、ここでいわば儀式的に(映画的に)死人になった彼は、
つづく物語の展開のなかで再三、銃によって致命傷を負いながらも、
もはや死ぬことのないゴーストという特権的な身体を獲得することになる。
(この映画のエンディングで、彼の眠りが延々と引き延ばされるのはそのためだ。)


皮肉なことに
ゴーストとなったデンゼルは
ダコタによって「生きる意味」を与えられる。
もう、彼には不要のものだ。いまさら生きようもない身体なのだから。


ゴーストを甦らせようとしたダコタは
作劇の神の懲罰であるかのように
死へと連れ去られる。


タンポポをプレゼントするなど、生者の国でのデンゼルとダコタとの
気恥ずかしいような「こころあたたまる」やりとりに比べ、
死者の世界での二人の結びつきは、より鮮やかなイメージで描かれる。
水のなか。明るいブルーの世界で
軽やかに身体をくねらせるダコタと
鈍重な身体を沈めていくデンゼル。


そしてデンゼルは、
死者の国から現れた復讐者として、メキシコを血の海に変えていく。



……という感じで
まるで監督トニー・スコットが
「イーストウッド映画をオレが撮るならこうやるね」
といわんばかりの内容。

でも、トニーの演出は、見ていてかなりつらい。
ダコタ誘拐の犯人たちを死の国に呼び込もうとするときの
デンゼル・ワシントンの英雄然とした表情ときたら、どうだろう。
たとえばクリント・イーストウッドがジーン・ハックマンをいままさに殺さんというとき、ふたりのあいだに一瞬流れる親密さを、
トニー・スコットはつかみそこなっている。

たぶんこの映画に価値があるとすれば、それは、
『マイ・ボディーガード』のなかでは活躍できなかった
クリストファー・『デッド・ゾーン』・ウォーケンが
いつの日か、本物のイーストウッドが紡ぐゴーストたちの物語の役者として
スクリーンに出ることを予感させたことだろう。

イーストウッドが『マイ・ボディーガード』を観れば
「クリストファー・ウォーケン、オレならこう撮るね」
と、意欲を燃やしてくれるかもしれないからだ。