レストランでコースを食べていて、
「あれ、もうデザートだっけ?」
というときの気持ち。
物語の後半、
銭婆の家についてからは
そんな肩すかしをくらった気分だった。



だって、
血みどろの瀕死状態で逃亡してきたハクによって恐怖を予告され、
「銭婆はおそろしい」という、
おまえだって十分こわいんだよ、な湯婆婆の台詞もあったりするなか、
文字通りの片道切符を手に、「愛」ゆえに旅立つ千ですよ。
しかも、昏睡状態から目を覚ましたハクが、
ぼろぼろの身体で彼女を追いかけるのだといい、
「帰ったら八つ裂きにされてもいいのか」
という湯婆婆の恫喝を背中に受けながら出かけていくわけですよ。
そこまで話を盛り上げておきながら、
いざ千が銭婆のところに着いてみれば、
ケーキとお茶で歓待されてしまう。
「そりゃないだろー」と思った。

でも次の瞬間、「これでもいいか」と思い直した。
傲慢ないいかたになってしまうけれど、
ぼくはこの映画を、許す。


宮崎や鈴木Pのインタビューなどをみると、最初の構想では、
銭婆のところで油屋以上の活劇が予定されていたらしい。
でも、製作期間の不足と尺の関係で断念。あのような形でおちついたらしい。
妥協?
それはそうなんだけど、この妥協が大きなマイナスになるとすれば、
宮崎が抱いた最初の構想が「正しかった」と仮定しての話。
しかし、いまある物語が間違っているかというと、
実感として、そう言い切ることは出来ない。
ハリウッドの三幕主義的な視点で見れば「破綻」。
しかし、その「破綻」が美しかった、ということか。

銭婆の家をめぐる変更で、物語の着地点は変更を余儀なくされる。
物語の「解決」が「銭婆と対決すること」から、
「電車に乗ること」にすり替えられる。

電車の移動シーンは、
上映時間とのバランスで考えれば異様なほど肥大し、
それ自体で物語のクライマックスを形成する。
そして、銭婆の家に着いてからの場面は、
長い長いエピローグとして機能する、いわばおまけ。
両親当てクイズなど、もはや後日談扱い。

でも改めて考えてみれば、
電車に乗ったことでいったい何が「解決」されるというのか。
両親が豚から人間に戻るわけでもなし、
銭婆の問題も保留のままだ。ハクも名前を取り戻していない。
でも、構造上、物語は「電車のなかで」解決され、終わっているし、観客もそれに違和感を感じない。
なぜなのか……。

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『千と千尋の神隠し』には
複数の物語がある、と思う。

物語は、油屋のなかで、一度は解決してしまっている。
両親が豚に変えられる。
これが発端であり「解決」を待つ最大の問題だ。
千尋は油屋という「社会」に入り、消えてしまわないために働かざるをえなくなる。
労働によって本来の生きる力を取り戻し、
その労働の成果として「高名な河の神」からもらった団子を使い、
両親の姿を元に戻して不思議の国から帰ることができた……。

これでいいはず。
物語は解決し、テーマも明らかになった。
この物語で宮崎は(『もののけ姫』のコピー「生きろ!」にならうならば)、
「働け!」と我々に言っている。

上の物語は宮崎の頭のなかで一度完成し、
同時に、映画を観る我々の頭のなかでも
(物語の進展を見ながら、ある種の予感として)
組み立てられていた。
つまり、解決のための要素が出揃っていることを我々は知っているので、
あとから来る「破綻」を許すことができるのではないだろうか。

ところが
両親を人間の姿に戻すはずの団子は、まず半分を失われ、
ついで残りの半分もなくなってしまう。
解決する術を手にしながら、あえてそれを見送る。
ここに「破綻」のタネが埋め込まれる。
「このへんでまとめとけば、綺麗にいったのに」という地点を、
宮崎はプイと通過してしまう。
どうして宮崎は解決を遅延させたのだろうか。

たぶん、「一つの物語」では満足できなかったからだ。
観客である10歳の子供に対する誠実さが、
このまま終わっては何かが違うと宮崎に告げる。
この物語に含まれる、すべてを掘り起こさなければと、彼を動かす。
そして、カオナシが暴れ始める。
銭婆が挿入され、別の物語が接続される。


銭婆とは何なのか。
最初それは「敵」として現れる。
善人としての側面を見せ始める湯婆婆の代わりに、
(物語のテンションを維持するために)恐怖の対象として召還された存在。

でも、「働け」と我々に言うための物語が(我々の頭の中で)解決したとき、
もはや「敵」はいらなくなったのではないか。
物語が解決済みである以上、敵と闘うことに意味はない。
つまり宮崎はあまりにも効率よく物語ってしまったので、
最後の戦いで解決を待つ課題がなくなってしまったような気がする。

そのため銭婆は最初の意味を脱色され、
「海の向こうにいるもの」として在るようになる。

それは、ただ海の向こうにいればいい。
そして千尋はそこに行きさえすればいい。


物語の接続詞として、銭婆に返す判子「魔女の契約印」を、千尋は小さな手に握っている。 
でも、列車シークエンスのあまりの長さのために、判子も意味を薄れさせてしまう。
カメラも判子を忘れたかのように、車窓に向ける。
延々と、車窓の情景がていねいに描き込まれることで、
時間が遅延し、物語が後退し、
やがてそこには、「旅そのもの」しかなくなってしまう。
夢幻のような情景の、旅そのものの美しさしかない。
そこではなにも起こっていない。しかし、なにかが起こってしまっている。
「これは正しい」と感じる。
この「別の物語」では、
生きろ でもなく 働け でもない別の何かを伝えようとする。